【幕末偉人伝】戊辰戦争 悲話 21人の壮絶な自刃 西郷千恵子 会津藩
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- Опубликовано: 16 окт 2024
- みなさんこんにちは🤗AIZUチャンネルのあきくんです。
今回は戊辰戦争における会津戦争で起こった悲しいお話です。
会津藩筆頭家老西郷頼母の妻西郷千恵子、新政府軍が会津城下に迫ると戦いの足手まといになる事を不本意とし一族ほか総勢21名で屋敷内で自刃しました。その中にはまだ幼い娘達もいました。
西郷頼母邸跡、夫妻のお墓に実際に足を運んで撮影してきました。
✅会津若松市にある『会津武家屋敷』には再現されて西郷頼母邸があります。そこに21人が自刃した部屋も再現されています。会津へお越しの際はぜひ立ち寄ってみてください。
会津武家屋敷のホームページはこちらです⬇️
bukeyashiki.com/
✅西郷千重子辞世の句、会津戦争における戦死した婦女子の碑がある善光寺についてはこちらです⬇️
会津若松観光ナビwww.aizukanko....
#会津 #幕末 #自刃
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それでは次の動画でお会いしましょう👋
隣で1歳の娘が寝てます。
こんな可愛い子を刺せない(泣)
日本が近代化を進めるにあたって、会津藩は重い十字架を背負わされてしまったと思います。幼子まで犠牲になっているのを見る度に胸が痛いです。ただ、だからこそ会津魂は今に伝わるのだと思います。「会津は日本一美しい侍のくに」。またいつかゆっくりと会津に行きたいです。
ご視聴ありがとうございます。
言ってみれば大人の争いに子供が巻き込まれたとも言えますが、当時幼子にどのような教えを説いていたのか気になります。いずれにしても悲しいことですね。
また会津へいらしてください😊
…誰も,悪くない…この思いを胸に抱き,最後,会津の粗末な家で,一人で息を引き取った「西郷頼母」の思い。計り知れません…。皆様の御冥福を,唯々,お祈り申しあげます…。
・・・言葉が見つからない。ただ背中をまっすぐに姿勢を正して視聴しました。会津は訪れたことがあり、白虎隊の最後の場所や記念館も行きました。いろいろ旅をしましたが、「もう一度行きたい」のは「会津」です。そしてこの場所です。UP主さん、ありがとう。
山紫水明、山在り、湖在り、本当に、会津は美しい場です。時代が、流れ変わっても、会津魂は、受け継がれてるのですね❗🎉
会津の空気、自然、人。
いつまでもここにあって欲しいです。
会津魂!
激動の幕末で戦争に翻弄された西郷家ですね。
最後に一人残された頼母が不憫すぎる。
戦争さえなかったら子や孫と過ごせたはずなのに。
子供たちが自刃するのは胸が苦しくなります。
やはり武家の儀故仕方なかったのでしょうが辛いですね。
夫と息子を送り出した時どんな気持ちだったのだろう。
子供を刺し殺す時どんな気持ちだったんだろう。
それを思うと、何とも言えませんね。
壮絶すぎる。
当然ながらこんな生き方できない。
昔の人の芯の強さは計り知れない。(;_;)
日テレ版ドラマ白虎隊で自害前に息子の吉十郎呼んで「母たちはこれから長い旅に出ます」って告げるシーンが泣ける
息子は知ってか知らずか「道中つつがなきようお体に気をつけて」って返すんだけどそれ聞いて姉達は涙目になる
感極まります、、
私のお袋も会津若松出身です。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
東京生まれですが母と父ともに福島白河と矢吹ですが幼い頃田舎に行くと白虎隊の絵があり何かな?と思ってましたこんな悲劇がありでも武士の妻として西郷千恵子さんの様な精神を育んだ会津魂は言葉に言えません立派ですね😭新政府軍何か憎くなりました東京も薩長藩に征服されその後第二次世界大戦の軍人らが薩長の人が多い悲惨な戦争になり沢山死にました辛い過去から学ぶ事は平和だが忘れたらまた戦争になる。
ご視聴ありがとうございます😊
当時、新政府軍が城下に攻め込んで来て自刃した人達は相当数いたと言う事です。戦争はいつの時代も悲しい事が多いですね😓
涙が出ます。ご冥福をお祈りいたします。
日テレの白虎隊を思い出します。
会津魂とは言え、涙が出ます。
生き残った会津藩家中の方も、斗南藩へと流罪に等しい屈辱を受けています。負ければ賊軍となる悲しい時代…京都の金戒光明寺の会津藩士墓地へのお参りは済んでいるので、機会があればこの場所にもお参りしたいです。
戦はいつの時代も辛いものがありますね。
機会がありましたら会津へもお越し下さい。
勘違いしてますが、斗南へ行くのを選んだのは、会津です。新政府からは斗南か猪苗代か、どこに移るか選べと、言われましたが、猪苗代は戦争の折、民家を焼き討ちして、領民の恨みを買っていた為、斗南しか選択できなかったのです。言わば、自業自得です。
墓地もあまり人が訪れていないような感じで、寂しいですね。
親戚が元会津藩士の家なので、遊びに行くと飯盛山や会津城など連れて行ってもらいました。NHKの八重の桜が放送したときは、正座して観ていると言っていたのを思い出します。
西郷頼母さんのお墓は本当に小さくて見逃してしまいそうです。周りも訪れる方も少なく少し山の方へ行くと荒地になっている所もあります。僕は家が近所なのでお散歩がてらよく行きますがたまに歴史好きな方が来ているようです。
武士とか会津藩とか覚悟とかそういうの省いて、、なんでこんな素晴らしい人間達が亡くならけばならなかったのか。です、
生きていたら‥‥とついつい考えてしまいますね。
会津チャンネルいつも懐かしく拝見させて頂いてます。ありがとうございます。当時、大切に育ててきた子供達を手に掛けざるをおえなかったこと、どんなに悲しかったかと思うと胸が痛みます。西郷邸跡知りませんでした。いつか行ったときお線香添えてあげたいです。皆んなあの世でまた再開して幸せに暮らせてるといいな。会津チャンネルさん、また動画楽しみにしてます、頑張ってくださいね!
あれ、四郎は、この時どうしていたのでしょう?‥…四郎‥…つまり、あの西郷四郎の事です。後に、姿三四郎のモデルになった人✨‥…
若松へは学校行事で何度かと観光で何度か行ってますが
白虎隊の話しか知らなかったです。
なんて切なく悲しい事でしょ…
自分の子供たちを手にかけ自ら命を絶つって本当に辛すぎます。
若松に行ったらお墓参りさせて頂きます。
ご視聴ありがとうございます。
この話のような事は他にもたくさんあったと思います。本当に切なく悲しい事ですね。
切ないくらいの気高さに涙なしに見られません。
覚悟というかこれぞまさに生き様ですね。
八重の桜で知りました。何とも言えない気持ちです。自ら子供に手を掛ける、子沢山だけに余計に辛い。
ご視聴ありがとうございます😊
悲しい出来事ですね。
大河ドラマ『八重の桜』では、西郷千恵子役は宮崎美子さんが演じて居られましたね。
白虎隊好きで鶴ヶ城に数回行きました!本当に悲しい戦争でしたね😢今度は、西郷夫婦の墓と21人が亡くなったお墓にも行って見たいです!数百年たったから、お墓もかなり古く成ってますね!霊感が少し有るのでちょっと心配です!動画ありがとうございました!
ご視聴いただきありがとうございました😊会津は街を歩けば戊辰戦争の遺構がたくさんあります!
西郷夫婦、二十一人の墓が有る善龍寺さんへもぜひ来て下さい。ちょっと怖いかもしれませんが💦
御味方ですか?敵ですか?
このお話と涙橋の戦いは涙なしには見られない。
綾瀬はるかが会津を訪れれば、目にしたお年寄りは感極まって泣くと云う。
西郷頼母邸の話し中野竹子さんの話胸が苦しくなりますね。実際にその現場に立つと空気が違う気がします。
福島の者です。今では会津を観光で訪れる方が多くいらっしゃいますが…
その歴史は悲しいもので、朝敵の濡れ衣をきせられ…親兄弟で自刃し合う…壮絶なものでした。
どうか、訪れて下さった皆様がお手を合わせて冥福をお祈り頂ければ幸いです。
近々念願がかなって会津を訪れる予定です。私はそれなりに歴史を知っていますので、物見遊山では無い積りです。手を合わせて亡くなった人々の無念さに思いを馳せながらご冥福をお祈りしたいです。
@@あんさん-p4o 様。ありがとうございます。お気をつけていらして下さい。
そんな時代というのは容易いが
壮絶すぎて言葉もない
女にも子供にも覚悟があり生きていたんですね
遠いお空で家族が仲睦まじくしていたらいいなぁ
差し出がましいが、もう少し整備して頂けまいか
宜しくお願いします。
改めて勉強させていただきました
会津の義しっかりと再確認させていただきました
ありがとうございます
こちらこそご視聴ありがとうございました😊
これからもよろしくお願いします。
鶴ヶ城,飯盛山には行きましたが、この話は知りませんでした、ありがとうございます。
保科家の墓と並ぶ西郷夫妻の墓。
ある意味凄い。
松平もだけど、保科家って徳川将軍家とつながりあるよね。
初代会津藩主の保科正之は、徳川秀忠の息子。
三代家光の異母弟だった。
泣けますたまらなく
悲しい出来事ですね。
鳥肌が立ちます。
考えただけで震えるようです。
悲しい話ですね。ご冥福をおいのりもうしあげます。
昔…ドラマ『白虎隊』で、自刃のシーンにて細布子の役を演じていたのが伊藤つかささんだったように記憶しております。(※間違っていたら申し訳ございません)本当に悲しかった…でも…当時の女性の凛とした強さは尊敬に値します。
会津若松は家族みんなで夏休みになるとお邪魔しておりました。福島県は私の家族みんなが大好きなんです。隣の新潟県在住ですので、すぐに車で走れる距離ですし、何より…
飯盛山の白虎隊自刃の地、そこより望む鶴ヶ城、若くして命を散らせた白虎隊士のお墓に衝撃を受け、必ず寄らせていただいておりました。皆、十代の若者達…
何より…白虎隊士の中に、私共と同じ名字の方がおられた事…驚きました。割と珍しい名字なのですが…
コロナが終息した暁には、またお参りをさせていただけたらと思っております。
ありがとうございました。
会津チャンネル観てま巣。歴史の流れのなかで
この、戊辰戦争は、忘れることが、出来ないことです。私どもの、住むところには大山巌の墓があり、奥様に成った、山川捨松さんが、眠っています。
捨松さんのお墓には一度お伺いしたいと思っています。
西郷頼母は後日、霊山神社の宮司になりました。
昭和60年代の日本テレビ、年末時代劇にて2夜連続【白虎隊】を観ていました。触発されて、数年後に会津に旅行しました。鶴ヶ城の天守閣に上り、名所を巡りました。西郷千恵子さん達女性が自害されたのも知っています。実際にあった歴史。忘れてはならない。
ちなみに、我が家は徳川の家臣でした。
これからも、史実をアップして下さい。
ありがとうございました。
凄い時代だ。この時代の人が今の世の中を見て、何と言うのだろうか?
自由で羨ましい!!!
ドラマ白虎隊のお婆さんの様に『ならぬ事はならぬ』(汁の教え)をきちんと教えなさい。
これを教える人が居なくなったから、『日本は馬鹿ばっかりになった』とか言うのかな?
@@真田信繁ゆきむら
この時代の人でも一くくりできないと思います。
今の時代でも、ひとはマチマチ。
加えて更に、今の人は・・・、戦後は・・・
今の教育は義とか死 というものに、きちんと向き合わず、他人事のように扱っているように思います。
だから、いざ、自分の目の前に迫ってくると・・・
初めてそれを考え、只、タジタジ・おろおろ・・・
例えが不謹慎だが、丁度、外国に行って、あちらの人から、
自分の国=日本を語れ、といわれても、
国柄、歴史、ろくに言えず、それを恥ずかしいと思えばまだマシ!
シドロモドロに・・・
そういうふうに教育されてきたから‥‥
義も死も国柄も歴史も、きちんんと考えないで
軽く、薄っぺらに、自虐的に、ただただ他人事のように扱うように慣れ親しんできた戦後。
薩摩長州 特に半狂乱の長州相手に慶喜の、苦悩と、逃亡という恥辱の忍従。
上野で飽きたらず陸奥までのぼってくるのを呆れ、しかし迎え撃たざるを已む無きと嘆く東北列藩。
会津の、そして、頼母一家の悲劇は、共に、長州への人身御供か?‼
僕の家系は会津藩で
松平容保公に使えてました
親戚には飯沼貞吉
遠縁は西郷頼母と爺さんに言われてました
実際に実家には容保公の写真があります
「なよ竹の…」は幕末における絶唱ですね。多くの方に知って欲しいです。
なよ竹の碑のすぐそばに住んでます。
とても心に響きますね。
戦いで亡くなった人たちの事を思うと悲しいですね。ふと、昭和20年日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻したソ連軍の、満州に残された日本人の老人・子供・女性に対しての機関銃の無差別シューティングで野辺に放置された人達を連想してしまいます。母親は赤ん坊の泣き声を消すために口を塞いだと言います。そこで助かっても、凌辱の日々が待ち受けていたと覆います。戦争に負けるのは、女性にとって一番の悲劇ですね。
辞世の句、改めて涙しました。
動画のなかでも用いられてますが
辞世の句ではなく、辞世 でいいと思います
余分にいうなら、辞世の歌 という方がいいのでは?
句ではなくて、歌なので辞世の一首でしょうが。
この動画、インパクトありすぎて
明後日、供養にいきます。
白虎隊での中島信行の介錯のシーンを見ると必ず号泣してしまいます🥺
私も、山下智久主演のドラマ白虎隊で見ました。
それでも、何だかやるせなさを感じました。
これで敵と言うのは、あまりに酷だなと思いますね。
「味方じゃあ」と嘘を言った中島信行も立派だったと思います。多分薩摩藩士か土佐藩士だったら同じ対応をしたと思うのですが、もしも会津憎しの長州藩士だったらと思うと…
昔は容保は被害者で頼母は藩主を裏切った小心者みたいな扱いが多かったけど、最近は頼母は先見の明がある有能な家臣で容保は頭の固い愚か者という意見が強くなってきた印象かな。まあ時代によって見方が変わるのは当然と言えば当然だけどね
大昔のドラマを観てから、ずっとトラウマになっています。
女性、子供全員が自決・・・😭💦🙏
現代の人からすれば衝撃的な出来事ですよね。
死ぬことはなかった
私の父親方は長岡藩のもので、家系図によると戊辰戦争で跡継ぎが亡くなっている
長岡の町は全滅で、河合継之助は町の人に後々まで嫌われていたみたい
まさに尽忠報国の士。武家の娘としての素晴らしい最期。天晴なり。
西南戦争では立場が逆転し、警視庁抜刀隊(旧会津藩士)が「戊辰の恨み!」と獅子奮迅の戦いを見せたのもいかに積年の恨みがあったかを物語っていることを痛感します。
抜刀隊は薩摩藩士が中心であって會津藩士が占めたのは少数ですよ。
なんて悲しい結末なのか。会津に住みながら、この場所は知りませんでした。
本当に残酷で悲しい出来事ですね。
門田町の青木団地の近くの善龍寺さんになよ竹の碑があります。ぜひ尋ねてみて下さい。
この話って「八重の桜」で家老役だった西田敏行さんの関連の人達の話だね、辛かったなぁ、
仮に城に行っても射程外から大砲で一方的に砲撃に晒されるんですが、
自刃の選択を選ぶって、他に何かあるだろって言いたかったなぁ。
『西田敏行』は、東隣の【郡山市】出身ですから、もっと、会津モノのドラマに出て欲しい人でも有りますね❗又、『は観光大使』と成る今流行りの事にもない関わって戴きたいモノですね‼️歳を重ねて時折に観る画面には、往年の【森繁久弥】に、似た面差しを見ますよ⁉️
日テレの年末時代劇、白虎隊
NHK の八重の桜
配役は別だけど両方に出ている役者が多く、役が違うのに西田敏行さんにおなじ台詞を言わせている。
『見てやるぞ、薩長がどんな国造るのか、見てやるぞ』
ロクな国になりませんでした。とはいえ、幕府軍が勝っていても大して変わらなかった・・・?
西の方で同じ苗字で反乱を起こし、賊軍になった誰かの身内とは程遠いですね。岩倉具視の謀略で賊軍となった会津の子孫は、永遠にこの屈辱を永久に語り繋ぎます。
岩倉具視は策略にかけては天才的です。貴族なのに。見方によれば、素晴らしい男なんでしょうが、卑怯この上もありません。こんな男がお札の顔ですよ。日本と言う国はどうかしています。
凄い人達だ 自分では 此処までの覚悟はできない けど 物凄くうらやましい 出来るような人間になりたい 自分の生き方が 恥ずかしい
生きるのは難しく死ぬのもまた難しい。だったら死ぬまでは楽しく生きようじゃないか!って思います😊
ぜひ教科書に載せるべき事実ですね。
確かに戊辰の会津の悲劇は悲しいが、武家の習いでもあるし前後の時代考証からしても、敗軍になってしまったが故であって官軍がどうのと言う以前の問題だと思う。政治的に敗れてしまい幕軍の最右翼として狙われてしまったのも、藩の性質上仕方のないこととも言える。藩の持つ教育や倫理観を考えれば、大人衆がある程度の所で降伏すべきであったし、助命外交ができないまでに、京や大阪で守護職にあった藩が苛烈に取り締まった結果(取り締まりが悪いわけではない)だと言える。穿った見方をすれば、白虎隊や若年者の悲劇を盾に自分たちの行いのアンチテーゼとして後世に残したと言えなくもない。藩主が徳川家に忠誠を誓ったが故の悲劇ならば、武家としては主家への忠誠の証としての自刃と見るべきで、その精神性は評価できても、鳥羽伏見以降で桑名、会津がターゲットにされるの火を見るより明らかだったことが思えば、国難に殉じたとも言えない。だからこそ悲劇なのかも知れないと思っている。
武家の習い、といっても・・・
やはり、長州が藩内の半狂乱を内部統制できてなかったからでは?
@@さしすせそとくちゃん この時代の官軍は占領ではなく制圧が目的で、駐留軍を置いて統制など、どの藩に対してもしておらず、留守部隊を置く程度。どの藩も旧藩主や仕置家老格が声明を出して地元民や武士の動きを封殺しているのが通例。会津藩においてはそれが明らかに不足したことで、悲劇が産まれてしまった部分もある。
ただ、官軍側にとって慶喜が恭順してしまった以上生贄にはできず、結果として会津藩が生贄の様になってしまったのは、確かに残念なことだとは思う。
仙台の小学校の、修学旅行は、会津ですね~会津の歴史を勉強しに行きますが、初めて聞くお話ですね。m(__)mありがとうございました。
戊辰戦争に限らず同じ日本人同士、なんで戦わなければならなかったのでしょう?
現在では、考えられないですよ……
まして、自分で命を絶とうとは、悲しすぎる😥
当時の時代背景、同じ日本国といえども各藩での争いが絶えずありました。
今では考えられませんが権力争いや利害での争いがそこかしこで起こっていたそうです。
争いごとや自らの命を‥‥とても悲しい事ですね。
何故日本人通しが戦わなければならなかったかといえば、答えは一つ。
ペリーが来たからですよ。
日本は戦国時代が終わってから世界史上稀な泰平の世を送っていた。
経済も潤い、ペリーの開国要求さえなければ内戦をする理由など全く無かったのです。
アメリカは遅れてきた侵略国で、大航海時代既にスペインやオランダはアジア各国を植民地化して莫大な富を得ていた。
ペリーの開国要求も勿論砲丸外交であり、下手な抵抗は命とりになる。
為政者として責任のある幕府はいち早く世界情勢を見、我彼の国力差を考えてやむなく要求をのんだわけですが、
維新方である攘夷の志士にとってそれは売国に等しい許し難い行為、
弱腰の幕府に最早任せてはおけないと日本人通し血で血を洗う内戦になったわけです。
どちらも皆国を守る為に必死で戦ったわけで、
世界のすう勢の中で避けて通れない戦いだったのです。
どんなに悲惨でも
どちらが勝っても負けても、徹底的にやり合ったことで外敵という国難に立ち向かう気概は残った。国論二分して血を流し合うこともなく、
唯々諾々と外国に国を差し出していたら、
独立国としての日本は
今頃無かったかも知れません。
そして国難は一度ではすまない。何度でも襲いかかります。
悲惨だ、嫌だ、
では解決しません、。
その都度血を流す覚悟で先人が守り抜いてきた祖国を私たちもまた受け継いでいかなくてはならないのでは?
@@玉虫厨子-z8o その通り
長州はオランダ、フランス、アメリカにもボコられ
下関を占領され
幕府からもボコられ
薩摩からもボコられた。
けれども決して諦めなかった。
長州藩はテロリストなど言われますが
日本の為に。尊王攘夷という志を下に
結果的に長州が倒幕に成功し、国家権力を握るのは必然だったと思います。
そのような気概がある人達に国を任せたいですからね。
私の好きテーマです・・が・・・辛いです。涙が出ます。”なよたけの・・・”涙です・・・・
御宸翰を孝明天皇から賜っていた会津藩だったのに・・・
当時は悲しい話がたくさんあったそうです。
他にも一家自刃の出来事は多いですからね。
映画の阿部一族のくだりに似てますよね一家で自刃し果てるのは.昔の武士の家庭の絆と言うのを感じますね
大和撫子!
武士の妻こそ哀れなり!
主君と夫と家柄に嫁いだ悲劇としか言いようがないです!
その時代の生きざまですか……
こう云う歴史こそ子供たちに教えるべきことですね!
当時と現代の価値観の違いなのか、死生観の違いというか、武士道とは死ぬ事なりだったんだろうなぁ。
現代に生きる我々の理解を超えてるよね。まぁ、太平洋戦争の頃までこんな考えがあったわけだし。
会津藩と新政府軍の戦いは胸の痛みを感じます、幼い子供を我が手にかける、それも武士の道、来世があるなら平和な時代にときっと思ったでしょうね、会津若松市の教育委員会?のかた墓地があんなではとても可哀想ですきれいにしてあげて下さいお願いします。
150年前に起こったことなんですよね、お墓は管理が難しいですよね💦名の知れている方のお墓でも荒れていたりします。
ではそこに行かれるくらいならせめて花の一本線香の一本手向けてあげて下さい
はいわかりました😊
少しの心遣いが大切ですね。
本当は、子孫を探してあげる方が良いのでしょうが、絶えてしまったものもありますものね。
墓地を管理されてる方々(お寺の方々)が、花を植えてあげると良いのでは?と思います。
このような悲劇がかつて遭ったことをきちんと理解し、二度と繰り返さない事をきちんと胸に刻んで手を合わせるだけで、良いと思います。
決して、遊び半分では行って欲しくありませんがね。
@@真田信繁ゆきむら そうですね、いつの時代にも言えることですがこうすれば良かったのにと後になったら解ること、ただ会津の人びとは西軍にとって他の藩より許し難いものだったのを皆解っていた、故に戦い抜こうと会津魂を貫いたのでしょうね、その後の藩の在り方は悲し過ぎますが生きぬいた方たちはどんな思いだったでしょうか?
倒幕派の恨みを受けた会津藩は無念です。春嶽、慶信長生きして、どう思ったのかなあ!
白虎隊の詩吟を教えていただけませんか?若くして国を守る為に亡くなった方々は今の日本をどう思っておられるでしょうね。飯森山におまいりに行かせていただきました。詩吟の言葉を思い出そうとして思い出せませんでした。
子どもの時に覚えたままです
間違っているかもしれませんが…
「南鶴ヶ城望めば砲煙あがる
痛哭涙をのんで且つ咆哮す…」
気になったので調べてみました…これで合っているかどうか?
「南鶴ヶ城望めば砲煙あがる
痛哭涙をのんで且つ咆哮す…
宗社(そうしゃ)亡びぬ我が事おわる
十有九人(じゅうゆうきゅうし)屠後してたおる」
私自身は東京の生まれですが、集団就職で上京した父を含め我が家(一族)があるのは会津と同盟を組んでいた庄内。故に他人事ではありません。幸い一定の戦果によって最小限の被害に留めましたが、一歩間違っていれば西郷家を初め会津と同じ道を辿っていたかもしれないと思うと戦慄が走ります。
ご視聴ありがとうございました😊
戊辰戦争は各地に悲劇をもたらした戦でしたね。会津の地では1868年8月23日をはじめたくさんの人たちが自刃という道を選んでしまいました。そのひとつひとつを紐解いてみると胸が苦しくなります。
そんなに昔ではない。
ついこの間の話だ。
頼母はこの事を知って、どう思い、どう考えながら生きたのか。
自刃した一人一人にも人生があったのだ。
しかし、この時の高い志と行動に敬意を表したいと思います。
そんなに昔ではないですよね。
本人たちそして残された頼母はどんな気持ちだったのか?胸が痛みます。善龍寺の近くに住んでいるのでたまにお墓を訪れます。
切腹は痛いか痛くないかの実験をした医師?の話をどっかで見聞きしました。途中までは痛くない、感覚がないとのことです。(自分もミキサーの歯で脂肪が見えるくらいまで気付かないうちに切れたことがあるので、ずいぶん鈍痛を感じるなあという感覚ぐらいはわかります。)しかし途中からギャアアアアアという転がりこむ痛さだそうです。切る前からの恐怖だってあったはず。
武士の妻・子とはそういうことであるという相当な覚悟があったということなのですね。それにしたって、過ぎさった話とはいえ、なんとも言えない。腰抜かしながら「許してー助けてー」と逃げる子が一人ぐらいいたって…。
切腹の痛みを実験した人がいるんですね💦
女性は切腹ではなく首の頸動脈を切るという自決の仕方だったかと。
稚い我が子に刃を向けた千恵子の心情を察すると
涙を禁じ得ません。
唯一夫頼母と行動した長男も早世してますね。
一人残された頼母も哀れです。
涙が出る。
決して笑う事は出来無いが、八重の桜で見る限り、八重さんは日本で初めての女性で勲章をもらって居ます。・・・どうかなぁぁ~~自決する事がぁ~・・
会津の歴史。。。殆ど知識は無かった、ドラマを観たり、ここへ来て長州山口が話題に、今更と思うが。
思うところは有る。。。
取りがかりの者なのでお聞きしますけど、西郷という名字少ない気がするんですけど、薩摩の西郷隆盛とどこかで関係もあるんですか?。
戊辰戦争で会津と言うと、多くの人は白虎隊を思い浮かべるでしょうね。
あまりにも見事で潔く自刃した婦女子や、涙を堪えての介錯は、戦争の悲話としつて後世に語り継いで欲しいですね。
白虎隊の話は有名ですからね。
その他にもたくさん話しがあるのでまた動画を作りたいと思います。
会津藩、藩校日新館什の教えの中のならぬことはならぬのてすや、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ、弱い者をいじめてはなりませぬ、など現在でも皆が守らなければならない倫理観道徳観がありますね。今まであなたの動画を知りませんでした。でもこれで私が憧れていた会津のことが詳しくわかりもっともっと知りたいです。嬉しいです。これからもあなたの動画を見ていきたいと思います。よろしくおねがいします。
あんさんこんばんは😊
会津の教えは現代に照らすと当たり前のことを当たり前に守りましょうという事だと思います。
僕は会津に生まれ会津に育ちましたがこれまで地元会津について深く考えた事はほとんどありませんでした。お恥ずかしながらこの歳になって改めて学びたいと思い調べながら動画を作っています。間違いなども多々あると思いますが、出来るだけ現地に足を運んで動画を撮りたいと思います。宜しければこれからも見ていただけると嬉しいです。
西郷頼母の娘を介錯したのは中島信行では無く 戦死した土佐の武士だと思ってました また持っている書物を調べてみます
そもそも中島さんは会津戦争に従軍していなかったという説もありますよね。中島さんの通称中島作太郎に似た中島茶太郎さんと間違っているという記述もありました。
ハイ そうなんですよね
こんなにも寂しいお墓だったとは・・・
西郷頼母、逃げたとの説もありますが、もしそれが本当だったとしたら許せません。
一族郎党が自刃しているのに、73歳の天寿を全う・・・ 切腹すべきだったと思う。
ご本人の意をくんで質素なお墓になったそうです。
逃げたと言うか真実は分かりませんね💦土方歳三や榎本武揚らと合流して函館で戦いその後捕縛されたという記録も残ってるようですし。
貴男弐お願いガ、あります❣知り合い2、声掛けを、ステ必ず選挙で投票に、出向いてください!
敬礼、会津若松市出身です。
会津の方なんですね。
ご視聴ありがとうございました😊
TVでも壮絶な場面で涙しました
1人生きていた人がいて駆けつけた武士に貴方は敵ですか?味方ですか?ときき味方だ安心しろと答えたらなら殺してくださいというシーンはいまだに脳裏にあります。喉をひとさし深く刺して合唱する武士😢です。
会津若松に三日前、青春18で行き
白虎隊の会津に行き鶴ヶ城などを観光しましたがここは知りませんでした。自分はじゅうのおきてすら多分守れません。何気に最初のが守れない何を言われても従わないといけないそれがいじめにならないよう弱いものをいじめてはならないがあるのも流石だがまた最後の外では女性と話せないのも理由は分かるが何気にきつい罰の最高は縁切り無視や手を火鉢や雪に体を埋めるなどあったらしいが、、、
当時は壮絶な最後を遂げた人がたくさんいたようですね。
会津へいらっしゃったんですね。たくさんの史跡があるのでまた時間がある時に来ていただけると嬉しいです。
生き恥をさらしてでも、生き抜いて欲しかった。
子供を沢山産んで東北丿、気風を、大切に、して、うけ続けて、下さい!
ありがとうございます😊
自害しなくてはならなかっのでしょうか?気の毒過ぎてなっとくいかないのです。会津武家の事ネットでいろいろ、調べているのですが・・夫は長生きしているのに
敵に陵辱される位なら自刃がカッコイイと言う当時の価値観がありました。
個人的には避難すれば良かったと思いますが隣県とかに難民になって行っても匿ってもらった先に迷惑がかかるので行き場がなかったんでしょうね。
女ばかり非戦闘員20数人も城に押しかけても食料だけ減らし足手まといになるって理由。
西郷が家老職ってのもあって示しがつかないって感じでしょうか。
当時と今じゃ価値観が違い過ぎますよ
@@chirokazama4558 様
城は既に市民で一杯で、負担になる事を考えての行動だったそうです。
寺や百姓とかに匿って貰うのも武家のプライドが許さなかったでしょう。
この時代に限らず、
先の大戦までの日本人には、命よりも大事なものがありましたね。
それを守る為には躊躇わず命を捨てられる。
命に替えても守りたいものがありました。
何を尊いと思い、
何を美しいと感じるか、
戦後はその価値観がガラリと変わってしまったわけですが、
かわいそうというのは違うと思います。
我先にと戦場へ向かいこの命に変えてもと守るべきものを守る。
そう考えた人々を尊く思いますし決して間違っているとは思いません。
今の世に生きる僕が同じ事を出来るかと問われれば素直にはいとは言えませんが現実的にそういう状況にならない事を願うばかりです。
平和が一番と軽い気持ちでは言えませんが、本心は平穏に暮らせればと思います。
日本が地球上にただ一国で存在しているのなら
それで問題ないんですけどね。
相手のあることなので、
戦争も避けて通れない時はありますね。
無抵抗でやすやすと他国に国を差し出してしまったら、
戦って血を流したより
はるかに大きな代償が何世紀にも渡って待っていると思います。
一度属国となってしまったら再び独立の機会を得るのは、
オランダに四半世紀もの間隷属させられていたインドネシアの例を引くまでもなく僅かな僥倖に頼るしかない至難の業です。
横入り失礼します。
命より大事なものってなんですか?戦前の価値観が美しく守るべきものだなんて、私には到底思えません。頑迷で意固地で一人よがりな自己陶酔、とさえ感じます。あなたの論調、自爆テロさえ賛美しそうな危険性がありますね
自刃せんでも皆新政府軍は女子供の命奪わんかっただろうけど、まあ生きておめおめ新政府軍の軍門に下るのはって思ってだろうけどね、沖縄戦でも同じ事、白旗掲げた人々は皆助かった、別に米軍は殺戮しなかった、嗚呼
養子だった容保も、会津の徳川家大事に翻弄された一人だと思う。容保が朝敵になったのは薩長の個人的な理由。新選組や見廻組に仲間を殺された恨みは深かったのか。。。容保は天皇から頂いたもので作った陣羽織を大事にしていたのだから、朝敵となったのは納得いかなかったろう。現在の徳川宗家は容保の子孫だし、容保は水戸家の子孫でもある。または秩父宮妃殿下は孫。つくづくときの流れとは面白い。こういう戦争は、二度と起こしてはならないという戒め。
会津武家屋敷の自刃の間の展示で官軍の士官のマネキンがハーフっぽい顔立ち、八重の桜では加藤雅也さんが演じていてモデルは武家屋敷のマネキン?って思った
でも、八重の桜見た人だと
あの介錯をしたのは板垣退助みたいになってますよね
@@k2426 八重の桜では板垣退助になってたね。その方が絵になったのかね。加藤雅也さん連れてきちゃったしね。
ドラマ白虎隊は、板垣退助ではありませんでしたがね。
私の曾祖母が生まれた年が慶応四年でした…私が一年生の頃亡くなりました。
慶応四年、明治元年お生まれだったんですか⁉️凄いですね😊
天と地と水の源を造られました父なる神様
此の21人の方々と御家族が神様の国で再び逢えます様に
イエスキリストの御名を通して御祈りします。
ご視聴ありがとうございました😊
西郷頼母は73歳まで生きたんですよね。
あの戦火の中どうやって生き延びたのでしょう。
若松城を脱出した後、函館戦争に参加しました。
なよたけのの辞世の句を見ると涙が出てくる。
壮絶な出来事ですよね。
ただ、涙!
どうしてお墓が清掃されていないのか、悲しく思う。
清掃はされていると思いますが森というか山の中なので落ち葉が常にあります🍂
4歳や1歳の子を手にかけなきゃいけないお母さんどんなに覚悟と悔しい思いがあったか、、わたしなら、小さな子は殺せません。お母さんに刺されたなら、小さな子はきっとまた生まれかわってるはずです。自殺とは違うから。
本当に辛いですよね。
どんな気持ちだったのか考えるだけでも胸が痛みます。
この時代なら仕方ない事なのか
こういった話は忘れては
ならないとは思わないが
ただただ 時代が悪かったと
しか言いようが無い
信じられないですがこんな時代もあったんですね。
會津士族の末裔です。知らない事がまだまだ沢山あるのですね。手を合わせに伺います。
30数年前に初めて会津を訪れた際、会津武家屋敷(記憶が定かではありません)にて西郷頼母一族郎党自害の場を再現したマネキンディスプレイを目の当たりにし、不快な思いを抱きました。戊辰戦争自体が自治体の観光資源になっていることは否定しないのですが、秘すれば花(世阿弥の真意は諸説ありますが)の真逆の現状にとても残念な気持ちになったのです。話は異なりますが、津軽藩主である津軽承祜公の亡骸を見学させられた時も同じような気持ちになりました。
西郷家での出来事は口伝や文章、あるいは貴動画などで十分その役目を果たすことが可能だと思います。コメントのベクトルが動画とずれてしまいましたことをお許しください。
今は外国人の見学者も多く、
人形ディスプレイは百聞は一見に‥で迫力や説得力があり言語を超えてアピール出来るので悪くはないかも。
でも繊細な人にはキツイとは思います。
アメリカでも、処刑風景を再現したマネキンジオラマがあるところがあるんですが、正直不快でしたが臨場感はありました。
@@yaokomatu4016 遅返信深謝。まず初めに考え方はいろいろあって当たり前で、他者の意見を否定するものではございません。韓国天安市に独立記念館なる反日施設があることをご存じですか。ここは捏造のオンパレードで、蝋人形を用いて反日教育を推進する施設です。(※ググると様々な映像を確認することができます)比して会津武家屋敷は捏造の歴史を伝えるものではなく、視覚的に残酷描写をアピールする必要性は低いのではと感じた次第です。また件の米国施設は存じかねますが、国民性も関係するのではないでしょうか。「150年前に内戦があり、当時の武家社会は縄目の恥辱を避けるため一族郎党自決した。」で十分だと感じた次第です。
@@就活虎の穴 様
せいぜい絵図位にしといてくれたらいいかも知れませんね。
白虎隊のは絵図ですが、それでも子供時代観て怖かったです。
済州島にも反日記念館があるんですよ。韓国ってあちこちにあるんですね。
韓国の無垢な子供さん達に、
変な思想を植え付けていて心配になります。
@@yaokomatu4016 ジェントルマンなご返信痛み入ります。チェジュの記念館は知りませんでした。ただチェジュの人たちが半島朝鮮人の差別対象となっていることはライヴで何度も見ました。朝鮮は差別被差別の歴史ですから致し方ないのかもしれません。東京オリンピック選手村の横断幕も李舜臣賛美ですから史実を知らないというのは哀れなものです。しかし韓国には尊敬に値する立派な人物もいらっしゃるのも事実です。一派一からげに見るのは危険ですね。話がそれてしまいましたが、日本には語り継ぐ歴史がたくさんあります。会津武士の生き方もその一つでしょう。等身大の話を次世代に紡ぐことこそ大切だと思います。
水盃が水、盃と切れて聞こえます。
今生の別れに交わす水盃。
特攻隊も飛び立つ前に交わしました。細かいことかも知れませんが違和感を感じたので一言。
『みずさかづき』が『みず さかづき』に聞こえますね。
言葉は難しいですね💦会津に生まれ育ったので会津弁しか知りません。なるべくみなさんに分かりやすくと思うのですがイントネーションがおかしくなったりしてしまいます🙇♂️
すみません。
あなたの子孫が柔道家の加納先生姿 三四郎のモデルですよ!
へー。。。会津チャンネルですか。喜多方市が、ちと残念。チャイナの都市と姉妹都市の報。ど田舎だし、電波が届かないんだろうなと納得。親類縁者に何を言っても無駄と思うし、どうせ喧嘩になっちゃうもんね、黙っていようと思う。でも。。。大事にしたいと思う故郷では有る、残って欲しいとも思う。会津若松には、数えれるくらいしか行っていない、車で移動するようになってからは、殆ど行きませんね。磐梯町へ直接行ける抜け道が有るんで。
板垣退助の百円札が出た時
会津の人達はどんな気持
だったんだろう?
今更ですが、会津は悲運だったとしか言いようがない。養子だったので先代の遺言を守リ反対を押し切り守護職を引き受けざるしかなかった。江戸へ逃げたのも殿の命令だったし、幕府へ東北の藩それぞれ会津藩の許しを願いでたが駄目だった、そして愚かな当主の判断で家来、家族まで巻き込まれたとしか思えない。可哀想に!
家訓を頑なに守り通した事は義を感じますがあまりにも悲しい出来事が多いです。
幕末って最近の気がする。子供達でも助ける事はできなかったのかな?お母さん 34歳 若いのに。
150数年前ですからね、そんなに昔ではないですね。当時の覚悟は凄まじいものがあったと思います。
選択肢は無い、それしか武士の妻·家族として採るべき道は無かったのであろう。おそらく彼女らは、莞爾として死での旅に赴いたと思う。ただ合掌あるのみ。
凄まじいほどの覚悟を持って生きていたんだろうと思います。